ハイジャック
 
 バスから降りたユウリは東京空港ターミナルの高いビルを見上げた。
 不倫調査を依頼してきたクライアントが、調査終了の折に良ければと、ディナー付き遊覧飛行ベイフライト2001のチケットをくれた。
 そのクライアントは大手の東京航空営業部長という肩書きであったために、調査費用以外の口止め料の意味を含んでいたのだ。ただ営業部長でも、自由になるチケットは一枚しかなかった。
 ユウリは喜んで受け取りつつ、やはり竜也とのペアチケットが欲しかった。しかし、そのチケットはなかなか値の張るプレミアチケットだった。もう一枚入手するのは、トゥモローリサーチの収支ではとても不可能で、かといって、営業部長の好意を無駄にするわけにもいかず、ユウリはその日、一人で来ることにしたのだ。
 たまには一人、ロマンチックな雰囲気に浸るのもいい……ユウリは考えながら、遊覧飛行のチケットカウンターに向かった。悪い気分はしなかった、というより、高揚していた。
 その気持ちの高ぶりが、このフライトがロンダースによって何重にも仕掛けられた罠を見逃してしまった。東京航空営業部長がロンダースの傀儡であることを見破ることは、全く不可能だったのだけれど。
「ベイフライト2001のお客様ですね?」
「ええ」
「それでは、こちらの搭乗半券を持って、41番搭乗口へ。41番はわかるわよね?」
「えーっと」
「あのねぇ…ここを右に出てそこの出発ゲートをくぐったら、ずーっと右よっ。十九時出発ですからね」
「解ったわ」
 髪をピンクに染めた感じの良くないカウンタースタッフは、慣れない手つきでユウリのチケットを処理した。ユウリはその愛想の悪さをちょっと不愉快に思いながら、足早にそこを通り過ぎた。
「もう、ヤになっちゃう。こんな雑用押し付けられて!」
 黒い制服を着て、カウンタースタッフに変装していたリラは、ヒステリックに呟いて、ゼニットが変装したスタッフにその場を任せた。ゼニットは最高のおもてなしで、ベイフライト2001の客を次々に処理した。
 搭乗時刻になって、リラの搭乗案内が、スピーカーから空港中に流れた。カフェテリアにいたユウリは、残っていたコーヒーを飲み干して、41番搭乗口へ向かった。41番は空港の一番端に位置しており、そこには近未来的なデザインの飛行機が駐機されていた。
「綺麗な飛行機ね」
 もし、ユウリが30世紀の航空機に詳しければ、これが未来の宇宙飛行をも可能にする旅客機だと解っただろう。しかし、マフィア担当捜査官だった彼女にとって、空港に来る機会は護送犯引渡しなど数えるほどしかなく、実際に乗ったり見たりする機会など、ほとんど無かった。
 カップルや女同士の乗客が中心だったが、いくらか男もいた。行列が出来ると、あっという間にボーディングブリッジに吸い込まれていく。
 ユウリの番が来て中に入ると、機内はお金が掛かっており、尚且つ品のいい装飾が施されており、シートも狭苦しいものではなかった。
 フライトアテンダントも男で統一されており、それが気に入るところだった。まもなく搭乗が完了し、ドアがロックされた。
 機長のだみ声がフライトスケジュールについてアナウンスをし、機はバックして駐機場から誘導路に入り、滑走路に入る。程よい振動に機が震えると、順調な加速であっという間に離陸した。
 水平飛行に入ると、鴨のローストとガーデンサラダ、胚芽パンに、クラムチャウダーの食事が出された。もちろんワインを中心とするアルコールのサービスも行われる。
 ユウリは白ワインを選んだ。原始的な味のものが多いこの時代にあって、なかなかいいものだった。グラスを空けると、スチュワードが次のを即座に持ってくる。
 気圧が低く設定されている機内では、それだけ酔いの回りも早い。だが、高品質のサービスに気分を良くしたユウリは、一時間もしたときには、すっかり酔っ払っていた。
 前後不覚まではいかなかったが、おぼつかない足取りで、ユウリは一番近い最後部ラバトリーに入り、個室の鍵を閉めて、用をたした。つかの間の安堵に彼女が息をつくと、事態は突然起こった。
「きゃああああぁぁ!」
「えっ……」
 スチュワードたちがギャレーへ消えると、そこから白煙が吹き出し、それに気づいたカップルの悲鳴が上がった。
 白煙の中から不意にゼニットたちが現れる。悲鳴の波はあっという間に広いキャビン全体を駆け巡った。ゼニットたちは乗客に銃を構えると、二階へ続く階段から、リラがマントを翻して現れた。
「おーほっほほほ! みんな動かないでちょーだい。タイムレンジャー……あ、あれぇ?」
 リラは目を疑った。タイムピンクを捕まえるためにこのフライトをわざわざ立てたのに、いるはずの場所にユウリがいないのだ。
「なんで! お前」リラはゼニットを呼び止めた。「タイムレンジャーを探しておいで。絶対に機内にいるはずよ」
「竜也…みんな…」
 ユウリは個室から出て、衝立の影に身を潜めていた。クロノチェンジャーをオンにして連絡を取ろうとしたのだが、通常の旅客機でさえ携帯電話は通じない。ましてこの機は特別な措置が施されているため、応答が無い。
 したたかに頬を赤く染めている。それでも、ユウリはタイムレンジャーのリーダーであることに変わりは無い。ただ、限りなく不利だった。
「まずい」
 ゼニットがユウリのいる場所へ迫ってくる。ユウリは辺りを見回した。
 ラバトリーの中を覗き込んだゼニットは、並んだ五つの個室を一つひとつチェックし始めた。最後の個室を開けたゼニットはタイムピンクの姿を目にし、ノックアウトされた。
 リラが顔を上げると、ラバトリーからキャビンに投げ出されたゼニットがスパークして倒れこむのが見えた。ピンク色の影が乗客の間をすり抜けて、リラを襲い掛かった。
「タイムピンク!」
 意外とすばやい身のこなしでリラが避けると、ダブルベクターを構えて変身したユウリが翻り、通路に着地した。
「よくも楽しいひと時を台無しにしてくれたわね。許さないわ」
「あ~ら、あなたを捕まえる楽しいショウじゃない? 楽しんでいただけて?」
「リラ、時間保護法違反で逮捕するわ」
 その洗練された身のこなしに、乗客の間から拍手が起こる。リラはちっとも動揺せず、顎をあげてタイムピンクを見下した。
「ふ~ん、そんなこと出来るのかしら?」ユウリの見ている前で、リラがハンドピストルを取り出して、天井へ向けて構えた。「高度一万メートルはマイナス三十度、少しでも穴が開けば気圧さに変化が生じて、機は破壊されるわ」
「卑怯よ!」
「卑怯じゃなきゃ、悪者やってないわ。でも、こんなことをする前に、あたしが勝つわ」
「そんな根拠どこに……!?」
 ユウリは不意に頭が揺さぶられるような感覚を感じた。リラが一瞬、二重に重なって見えた。額に指をおき、何度か瞬きをする。
「そろそろ効いてきたようね?」
「なんの…こと?」
「あなたの飲んだ白ワインには、不活性剤が入っているのよ」
 ガシャ、ン…ダブルベクターがカーペットの上に落ちて、その手が震えながら垂れ下がった。タイムピンクはふらふらになっていたが、ユウリのプライドがその場に何とか立ち尽くそうと努力していた。
「そんな…リラ……」
 そういうユウリは強烈な耳鳴りを覚え、動悸が高まるのを感じていた。
 どくんっ!
「!?」
 パレオに包まれた内腿の付け根から粘着性の体液が、大きな鼓動に合わせて、漏れた。そんなぁ……久しく忘れていた感覚に、マスクの中のユウリの表情に赤みが増した。
「薬とアルコールの併用は、その効果を倍にするのよねぇ?」
 リラは余裕しゃくしゃくで構えている。スーパーヒロインの形勢不利に、乗客の間から動揺が広がって、さわめきが起きた。
「黙りなさいっ」波打つようなざわめきがピタッと止む。
 元々、アルコールに酔った身体に鞭打って、気合を込めていたのだ。
「まだまだよ…」
 足をもぞもぞさせながらも、ユウリは通路に落としたダブルベクターを拾おうとかがみこむ。
 びりっ!
 脊髄に走った電撃に、背筋がぴんとなった。
「あ…ああっ…」
 よだれがユウリの顎を伝う。グローブが痙攣していた。何とか、ダブルベクターを手に取り立ち上がる。ふらふらになって、何とかそれを構えていた。パワーはまだ十分にある。
 だが、彼女の精神は突き崩れようとしていた。
「リラ…はぁはぁぁっ…」
 爪先から脳天まで全ての感覚が緊張していた。ゼニットもリラも今のタイムピンクを捕縛することはあまりに簡単だったが、そうしようとはしない。気合に任せて何とか平静を保とうとするヒロインを放置した。しかし、いつかタイムピンクと言えども、負けるときが来る……
「たあぁ!」
 震える手でかざしたアローベクターが、リラへ振り下ろされる。リラはのそりと避けた。先端のハート型の部分が白熱してはいたが、空気を掴み、カーペットをえぐった。再び手元の武器を落とした、タイムピンクはおぼつかない足取りのまま、避難口のドアに前から寄りかかると、がくんとひざが崩れた。
 手がカーペットを掴んでいた。四つんばいになったユウリは頭を振ってなんとか意識を保とうとしていた。
「はぁはぁ…はあぁぁぁっっ…」
 一人の女性客の悲鳴を最初に、悲鳴がぼつぼつとあがった。
「なかなか頑張るのね。でももうおしまいよ」
 陸上のクラウチングスタートのような姿勢を取り、左膝をあげる。手でそこを掴むと、ピンクのクロノスーツに皺が寄る。目の前は何重にも重なって、眩いフラッシュが間欠的に起こった。
「んんぅ…」
 その胸のハート型に縁取られた部分のスーツの中から乳房が浮き出ている。性欲を覚えているわけではなかった。瞼を思い切り押さえつけて、無理やり閉じさせようとしているようだった。また目を瞬かせながら、頭を振るった。
「………ぁ…」
 立ち上がったユウリは血走った瞳をいっぱいにまで開けた。何も目に入ってこなかった。息をするたびに肩が上下する。乗客の安全を守らねばという使命感だけで、ここまで耐えてきたのだが、ロンダースに一撃も加えられないまま、ユウリは毛深いカーペットの上にその身体を横たえた。

 ベイフライト2001は、所定のコースに従ってフライトを続けていた。ロンダース囚人による操縦も地上との交信も、いたって正常だった。その中で、恐るべき事態が進行しているなど、機内の乗客とロンダース以外、知る由も無かった。
 どっぷりと汗を欠いたユウリは、ゼニットに持ち上げられて、アッパーデッキへ連れ込まれた。通常はファーストクラスかその人たちのためのラウンジが置かれている場所は、手術台のような硬いベッドを中心に、機械や不自然な形の金具が多数、設置されていた。
 ゼニットたちがタイムピンクを運び込むと、他のゼニットがビデオカメラの準備を整えた。それは機のオーディオ配信機器につながれていた。パイナップル型の収音マイクも用意され、全乗客がイヤホンをつけるように強制されていた。
「やったわ」
 カーペットでなくリノリウムの床面に、リラの高いヒールが音を立てた。緩やかな傾斜の付いたそのベッドに、タイムピンクをのせられると、鉛の何倍もの強度を持つ合成金属RZ5の手かせ足かせがまかれ、首輪が嵌められた。
 RZ5ワイヤーが胸や脇腹、腿などに通され、ゼニットたちが力の限り絞って、台の左右にある金具に固定した。
 ワイヤーはタイムピンクの身体にがっちり食い込む。クロノスーツに絞れて、むくんだように見える、ユウリの豊かな身体が、ワイヤーに押さえつけられて、小高い丘の数々を押しつぶしていた。
「わはははっぁ! 遂にやったんだね」
 身体を金色に輝かせたギエンは、仏像か何かでもみるような面持ちで、タイムピンクへ目線をやった。嘗め回すように見たあと、うんと頷いて、リラと視線を合わせた。
「やっていいかい?」
「さっさとして。早くしないと目覚めるわ」
 ユウリがハメをはずして飲むものだから、予想よりも多い薬を盛る結果になってしまった。それでも、リラは量を調整して、あまり多くなりすぎないようにした。だから、タイムピンクはもうすぐ目覚めるはずだった。
「よっし」
 ギエンは顔の仕掛けをうるさく動かすと、おもむろに腕をあげた。その先はスイスアーミーナイフのような構造になっており、新しい部分に変えた。低い連続音を響かせながら、その部分の先端が高回転を始めた。
「いい気味よ、タイムピンク。あたしの邪魔ばっかりするから」
 リラはタイムピンクの胸を思い切り絞った。ぎゅっと皺が寄る。無意識の吐息がマスクから漏れてきて、固定された身体がよじった。
 ウイィィィィン!
 音を立てた金色の先端がマスクの耳の辺りの丸い部分に突き刺さった。つかのま動きが止まり、ずるずると音を立てたあと、ピンク色のカスを落としてマスクの中に潜り込んだ。
 空気音とともに、マスクの与圧が抜けた。均一になったことにより、顔面の逆ハート型のピンク色の部分から色が抜けて透けた。無意識の中、ユウリは眉間に皺を寄せていた。大粒の汗が額に光っており、顎にはよだれの痕がついていた。
 耳が露出するほど、穴が大きくなった。反対側も同じように開けられた。リラがその閉じられた瞼に近づく。金属整形されたマスクの口元さえ、苦悶に歪んでいるようだった。
 リラの手がマスクに開けられた穴から中に入り、力を込めた。亀裂が縦に走り、甲高い音を立ててマスクがはずれた。マスクの前頭部を手近の金属カートの上にのせた。
 リラがユウリを見ると、その目は確かに見開かれていた。甲高いマスクの外れる音に目を覚ましたのだ。
「はっ…こぉこは…ぁ……」その声にいつもの凛々しさは無く、呂律が回らない様子でたどたどしかった。
「お目覚めだな、タイムピンク」
「リラ…ギエン、…」
 ユウリは辺りを見回そうと動かしたが、全身拘束されておりどうしようもならない。
「離しなさぃ…」
「あ~ら、何を言ってるのかしら、自分の状況が解って?」
 小ばかにするようなリラの口調、ユウリの瞳はとろんとしていた。
「私を殺す…気…なの…」
「違うわ。ユウリ、あなたはプライドが高いわ。そのプライドをずたずたにしてやるのよ?」
「なんです…って…」
「さっさと済ませましょうね。ここで来る痛みより、あなたのプライドが切り刻まれてる時間のほうがずっと長いわよ。ねぇ、ギエン?」
「ああ、リラ。タイムレンジャーをぶっ壊すのは大好きだ」
 ギエンはマスクを破壊したドリルを腕から外す。マスクをおいたのと同じカートに置くと、新しいものに付け替えた。新しいものは巨大な注射器で紫色の濃い液体が並々と入っていた。その鋭利な先端がきらりと光るのをユウリは見て、とろんとした目に恐怖が射した。
「ぃ…」
 嫌、そういおうとしたが、彼女を支えているプライドが、かろうじてそれを飲み込んだ。リラはプライドをずたずたにすると言った。
 タイムレンジャーのリーダーが油断と不注意で、こうも簡単に捕らえられていることさえ、ユウリにとっては十分な屈辱といえた。こんな辱めは他には無かった。これ以上のことなど、考えられなかった。
「さぁ、怖い? 怖い? 怖いわよねぇ、怖いでしょう?」
「…………」
 汗が滲み、ユウリの目に入って染みた。その髪さえぐちゃぐちゃだった。取り乱しそうで、白く並んだ歯が唇から出て、その間に浅黒い舌が垣間見えた。
「舌を咬んだって無駄よ。怖いんでしょう。怖いってお言い!」
 リラがユウリの頬を掴んだ。無理やり頬の上から歯の間に入れられた手に、口が開く。瞳が潤んでいた。
「あなただって、まだ新人の若手ですものね。怖くても当然よ。この薬がなんだか教えて欲しい? 教えて欲しそうだから教えてあげる。アルファ3000って言えば解るかしら」
「アルファ3000……」
 その合成毒物を利用した事例は、捜査官養成学校で必ず語られる1ページだ。選抜された強靭な男女たちが解説を受けるその授業でさえ、沈黙に包まれて泣き出すものまで出る――しかし、捜査官として第一線に出るまでに、大部分がアルファ3000などに出会うはずがないと、理解して受け入れる。ユウリもその一人だった。
 注射器に込められたアルファ3000は致死量――死であるとするならば――をはるかに越えている。ひとたび注射されてしまえば、ユウリは自らの感情を意識の底に封じ込まれ、新しい人格が生まれる。
 その人格は元の人間に見せかけるように、犯罪を働く。夜も昼も無しに身体を蝕み、限界に達すると、永遠の闇――死が訪れる。アルファ3000とは、安楽死とは全く逆の洗脳後人格誘導致死剤だった。
「ぃ、ぃゃ…い、嫌だあ!」
 悲鳴はジェットノイズを切り裂き、アッパーデッキ中に広がった。
「嫌?」
「た、助けて…」
 ユウリは憎むべき敵であるリラに求めた。固定された台ががちがち音を立てる。ユウリのインターシティー捜査官、タイムレンジャーのリーダーとしての尊厳はたったいま、破られたのだった。
「ここで逃がせば、ユウリ。またあたしの邪魔をするんじゃなくて? タイムピンクなんてうざすぎるのよ。正義を気取って、この千年昔の原始時代にまで、邪魔をしにくる。あたしには優雅な生活を過ごす権利は無いってわけ!??」
「違うわぁ。リラ、罪を償えば…」
「罪を償う!? ははん。ちゃんちゃらおかしいわよ。あたしがどんな罪を犯したって? うるさいわよ。何をやってもあたしの勝手でしょう。あたしは自由よ。自由を謳歌しているだけだわ。それでもまだ違うって言うのなら、しょうがないわね」
 ギエンが注射針をユウリの首筋に近づけた。スーツを通じてその確かな冷え切った感覚がユウリの脳天を突き抜け、ものすごい恐怖に身体が打ち震えた。
「お、おねがい…」
「何? このリラに罪を償えというくせに、助けて欲しいと願うの。そんなの間違ってるわ!!! ギエン、さっさとやっとおやり!」
 ぷす。
「ぎゃあああああああああああぁぁぁ!」
 人のものとは思えない悲鳴が、全乗客のイヤホンから音漏れした。
 難なくクロノスーツを突き破った注射針が、首筋に充てられる。針の先端は皮膚を潜り、黒い血が滲む。白い肌に内出血が染まり、針はずぶずぶと潜っていく。細胞を断ち切って、突き抜けた針が、太い静脈へ達すると、リラが注射器のピストンを押し込んだ。
 血は紫に染まっていく。アルファ3000は肺に達すると、循環し、心臓に達して、全身に打ち出されていった。白めを剥いたユウリは顎を突き出して、顔を真っ青にした。
「んんっ……んんんなあああ…」
 タイムピンクを固定していたRZ5ワイヤーが次々に切断されていき、拘束具がぱきんと音を立ててはずれた。リラとギエンは一歩下がって満足そうに微笑んだ。
 光のベールがタイムピンクを包み込むと、ユウリの意識は既に脳の中でミキサーされていた。ぶつ切りにされたユウリはけものの表情を露にし、泡を吹き出す。クロノスーツの内側全体に鳥肌が立ち、息づいたばかりの内腿の付け根がわなわな震えた。
 アイラインが浅黒く染まり紫に変色していき、頬がこけていく。まつげが異常なほど伸びて、苦悶の表情が長く続いたあと、安楽した。
「ユウリ、お目覚め」
 まだ残っている拘束具をゼニットにはずさせて、リラが歩み出た。タイムピンクはゆっくりと台から降りると、その場にしゃがんだ。
「ギエンさま、リラさま、何でもご命令ください」
 ユウリは言い、浅黒いアイラインに邪悪な陰りを見せた。
「じゃあまず、この手に服従の口づけをして貰えないかしら?」
「解りました、リラさま」
 ユウリは差し出されたリラの手をグローブで優しく包み込むと、手の甲に口づけをした。

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