密漁の夜

 口にくわえたメンソールにライターを近づけた。ライターはタバコの先にあって、だけど火をつけるのをやめた。ライターとタバコをテーブルに戻して、ルカ・ミルフィは自分がイライラしていることに気づいた。
「もう」
 タバコの吸い口にはピンク色の跡がついていた。普段、ルカはあまり化粧をしない。特にそんなナチュラルメイクのような色の口紅は趣味じゃない。
「おそい」
 ノックがされた時、声をあげた。おそるおそるといった感じで扉が開き、蝶番が音をたてた。アイム・ド・ファミーユは、下手な笑顔を浮かべてそろりと部屋に入ってきた。
「ハカセさんにお皿洗いを手伝ってほしいって言われてしまいまして、わたくしも今日のお片づけは結構忙しそうにみえたので……」
「ふぅん」
 ルカは立ちあがり、アイムに近づいた。
「まあいいけど」
 首から下はゴーカイピンクになっているアイムの姿がそこにあって、ゴーカイイエローになっているルカは、手を伸ばして扉を閉めて、鍵をかけた。
「すいません」
「ううん、いいの」
 こんなにしおらしくされてしまうと、愚痴を言おうにもいえなくなってしまう。それに、待っていたこと、待ちこがれていたことを、彼女に悟られるのも、なんかしゃくだった。
「でも、ルカさん?」
「ん?」
「わたくしたちは、ゴーカイチェンジをしてしまう必要はなかったような気がするのですが……」
 戸惑いがちなアイムの声――こういうときは、押して押してしまえばいい。ルカは心の中で微笑んだ。
「だって、毒ガスは戦ってるときに浴びたんでしょ。だから、スーツにもしみこんでいると思うし、ザンギャックとの戦いの最中にそのしみこんだのが作用したら危険じゃない?」
「そ、そうですね」
 アイムは躊躇している。というより、そのうずき、みたいなものが身体にこみ上げているのかもしれなかった。
「でしょ、とにかく座って」
 ルカはアイムにソファを示した。そうしてから、グラスを二つとって、手づかみで氷を入れた。
「ロックでいいよね」
「わたくし今日はお酒は――」
「じゃあ、ロックで」
 瓶を傾けて、琥珀色の酒をグラスに注ぐ。ルカは不安がっているアイムを和ませるように優しく笑ってあげた。
 
 ――身体が最近おかしい。
 アイムに小声でそう相談されたのは、今日の晩ご飯のあとのことだった。変な風に身体が疼いてしまう。なんでそんなふうになるのかさっぱりわからないけれど、もしかしたら、三日前の戦いの最中、ザンギャック怪人の放つ毒ガスを浴びてしまったせいなのかもしれない。
 相談されて、ルカは最近のデータを調べた。そうしたら、そのガスについてはハカセが既に調べていて、無毒の物質だったと判明していた。
「いやあ、別に毒性がないなら、別に話さなくてもいいかなって」
 キッチンで大鍋の片づけをしているハカセは、なぜアイムに結果を教えなかったのかとルカがきくと、そう答えた。
「あんたね、自分が変なガスを浴びたら、問題なかったか不安になるでしょ?」
 ここらへんがダメなんだから、ルカはがくっと肩を落とした。だけど、相手は彼女の小言にも全く意に介した様子もなく、地球人が使っている茶色いトゲトゲ――確かタワシとかいうやつ――で、鍋を洗っていた。
「まあ、そうなんだけどね。でも、マーベラスには言ってるよ、ぼく」
 ルカはハカセが嫌いじゃない。むしろ仲間としては好きなほうだった。だけど、そのときばかりはこいつを叱ってやりたいと思った。
「あっそ」
「ねえ、ルカ、そこの洗剤とってくれないかな――」
「自分でとればいいじゃない?」
 少なくとも自分は彼を叱って、不快な目には遭わせなかった。でも、家政婦のまねをしてあげる義理まではないはずだった。
 ルカはキッチンをでて、それからアイムにこの情報を伝えようと思った。手元にはハカセの使った分析結果があって、それを見せれば彼女も安心すると思った。
「あ、でもな――」
 廊下の電球が一カ所割れていた。きっと、ナビィが頭をぶつけたかなにかしたのだろう。ルカは、その割れた電球をみて、手元の書類をみた。
 三分後、ルカはアイムを見かけて、小声で耳打ちをした。夜中に部屋まできて。ガスには大変な毒物が混ざっていて、毒素を抜かなきゃいけない。大丈夫、やり方はわかっているから。
 追いつめられたネズミのように顔をきゅっと歪ませているアイムをみて、ルカは大丈夫と重ねて言ってあげた。
「あと、部屋にくるときはゴーカイチェンジをしてきて。マスクはいらないから」
「わかりました……ルカさん」
「大丈夫だから」

 アイムにグラスを渡して、ルカは隣に座った。いつもこの格好をしているのに、部屋でこうしてソファに座っていると、確かに変な感じだった。
「わたくし、こういう強いお酒はあんまり――」
「毒素を抜くには、まずアルコールを飲むのよ」
 ルカはさっとグラスを掲げる。言葉はアイムに効果覿面で、彼女は躊躇しがちにグラスを口に近づけると、目をつぶってそのまま半分ぐらい飲んだ。
「はぁ……」
「いい飲みっぷり」
「のどが焼けるみたいです」
「それは、アルコールがよく効いている証拠」
「ルカさん、毒素についての情報はお持ちなんでしょうか」
「なんで?」
「わたくしも一度目を通したいと」
「だーめ」
 ルカは腕をアイムの目の前に伸ばして、そのままその向こうのテーブルへ伸ばした。グラスを置く。ルカは身を乗り出した格好になり、アイムは少しからだを後ろに倒していた。
「何故、ですか?」
「必要ないから」
「必要あります」
「ないったらないの」
 下手に理屈をこねちゃいけない。ルカはそう心得ていた。ルカはアイムより言葉の切り返しは上手だったけれど、細かい知識の取り合いになると、心許なくなってしまう。
「あたしのこと信じられない?」
「自分の目で確認できれば……」
「あたしが信用できない?」
 ルカはアイムの目をみた。どこまで強く見つめてあげた。二人の顔は近くて体温を感じられるほどだった。
「いえ、そんなことは」
「じゃあ、みなくていい。でしょ」
 まだ少し躊躇している。でも、時間が経つごとにアルコールは体に回っていくはずで、ルカは水を与えたりはしなかった。のどはひりひりして、身体はぴったりと密着したゴーカイスーツに包まれていて、普段より何倍も敏感になっているはずだった。
「……そう、ですね」
「ねえ、アイム?」
「はい」
 少しアルコールの回った声だった。
「キスしたことある?」
 ルカはきいた。アイムは耳を赤くした。反応がおもしろい。首を小さく横に振る。答えはルカにとって意外だった。いや意外じゃないか、そう思い直してから顔をいっそう近づけた。
「あたし酔ってきちゃった」
「わ、わたくしもです」
「でしょ。だからさ、まずキスしちゃお」
「なんで?」
「毒を取り除くのに必要なの」
 ルカの言葉は嘘だった。でも、アイムには嘘みたいにきいた。ルカだったらきっとそんなふうに迫られたって騙されないだろう。でも、アイムならきっと――だってまだキスもしたことないんだし――
「毒を」
「そう、口に残った毒素を吸い出さなきゃいけないの」
「でも、そうしたら、毒がルカさんに」
「あたしは吐き出せばいいじゃない?」
 そういって、ゴーカイイエローはゴーカイピンクの肩を掴んで押し倒した。アイムは小さな悲鳴をあげる。身体を小さく震わせている。そういう、小動物チックなところが同姓としてどうなのと思うところもあったけれど、でも、いまこの瞬間でいえば嫌いじゃなかった。
「ルカさん?」
「いい?」
 少し野暮ったいぐらいにきいて、息を吹きかけてあげる。
「いいですっ……」
 ルカは口をアイムに近づけた。少し口を開けて、上唇をルカの唇で挟んで甘噛みをした。
「あっ……」
 いいながら、ルカは手をアイムの胸元に伸ばした。ピンク色のジャケットの金色に縁取りされたところから手を入れると、アイムの身体は暖かくて、顔を傾けて唇を重ねると、柔らかい旋律で頭の中がいっぱいになっていくのを感じた。
「んっぁ……アイム……」
「ルカ……さん」
 震えは収まり、柔らかく揺れる身体がぎゅっとすがりついてきた。メタリックな光沢に包まれたアイムは瞼を閉じて、目の前にいるルカに抱きつき、そうして、まつげを揺らしていた。
「唾液を出して」
「ふ……え……」
「唾液を出して、舌をつかってあたしの口の中に入れるの。いい?」
「え」
 すぐにその『命令』が受け入れられるなんてこれっぽちも思っていなかった。だけど、アイムはそれをしないと身体の毒素はなくならないし、身体は疼き続けるままだとおもうはずで――
 前者は嘘だったけれど、後者についてはほんの少しの真実を含んでいる。だから、アイムそれをするだろう。ルカは意地悪な気持ちで思い、そうして、唇を再び元に戻し、口を開けて舌を彼女の咥内へと入れた。
「んぁっ……」
 驚いたように声をあげる彼女――身体を動かして逃げようとすることをルカは許さない。素早さなら自信がある。逃げようとする方向へ先回りした。
 ソファにしずみ込みそうで、アイムの力が少しずつ抜けて、柔らかくなっていく。
「ルカさんのお口、タバコのにおいがします……」
 声には少しの嫌悪を含んでいた。
「だって仕方ないじゃん」
 ルカは釈明なんかしない。こんな因果な稼業をしていると、タバコをのみ酒を食らうということがどうしても必要になってくる。どうしようもない宇宙の荒くれ者の間で生きるとはそういうことだった。
 アイムのようになれれば良かった。だけど、ルカがアイムのように生きることは出来ないし、ルカにはルカのやり方があった。
「タバコ吸う?」
 テーブルの上に手を伸ばす。その手をアイムが掴んだ。ルカは目があった。アイムは首を振っている。
「そういう意味でいったんじゃないんです。わたくし、その」
「はじめてで動揺しちゃった?」
 笑って、きまじめにこっくりと頷くアイムのことがかわいいとか思いながら、でもルカだって結局動揺していた。いちいち『女の子らしい』アイムに、ルカはどこか嫉妬を抱いていた。
「もっと力抜いて。じゃないと」
「毒素が抜けない、ですか?」
「わかった?」
「ええ。でも、本当にこんなことで……」
「本当だから」
 ルカはその頬に手をやった。アイムは目を真っ赤にしている。泣いてない。でも、怖いんだろう。
「アイム?」
「あたしのことを信じて」
 アイムはけなげに頷く。
 信じてなんていうヤツはロクな男じゃない――ルカは思っている。ルカ自身がいまはロクなヤツじゃないのかもしれない。
 それならそれでいい。どうしようもないやつ。そう思われてかまわないし、マーベラスたちにこの子は渡さない――
「ほら、力抜いて」
 ルカはピンクのジャケットに手をかけた。左側を開く。そこには黒いインナーがあり、胸の真ん中に宇宙海賊のエンブレムが描かれている。
 胸は悔しいけど、あたしより大きい――ルカは、乳房に手をあて、下からもちあげるようにした。
「きゃっ」
「スーツのこの辺に毒素がしみこんでいるみたい」
「そう、ですか……ぁっ!」
「そう、ほら、アイム?」
 ルカはアイムのことを見つめた。唇を少し開いて舌を出してみせる。アイムは目を見てきた。それは十秒近く続いて、眼球が熱を持つほどにまで揺れた。
「はぁっ……んんっ……ルカさん……そんなところ……」
「身体が熱いでしょ?」
 こくり、目をつぶり頷く彼女――見てれば見ているほど、被虐心をあおられていった。
「頷くだけじゃわからないなあ。どうしたの、アイム?」
 ルカはそういう犯罪を憎んでいる。男勝りな性格といったって、荒くれ者の中では所詮は女という見方をされる。そんな見方をされるのは、ルカはいやなのだ。
「どうって……?」
 だけど、いまルカはアイムのことを見てそういう見方をしていた。
「身体の状態のこと」
「身体……?」
「そう、アイム、あたしに相談したよね。身体が熱くなって、火照って疼いてどうしようもなくなるって」
「は、はいっ……」
「だから、アイムの身体の中から毒を出そうとしているの。わかる?」
「わかります……っっ」
「アイムの身体のことがわからないと、あたし、どうしていいかわからないよ」
 所詮はアイムは女なのだ。ルカは顔を近づける。ふーっと息を吹きかける。ニコチンのにおいが二人の間に温かさをもって広がっていく。
「わ、わたくしの身体は……」
 アイムは話始めた。躊躇している口が時折開いて言葉が漏れる。そんな話し方だった。
「熱いです。ルカさんにそ、その……キスをしてもらって……頭の中がぼーっとしてきて……その」
「わかったよ」
 ルカは笑った。少し可愛そうになってきた。それは毒でもなんでもないことをルカは知っている。マーベラスもジョーも知っている。ハカセは危ういけれど、男だから知っているだろう。
「だから、あたしにキスをして。ディープキスを」
 マーベラスにあってルカにもあることは、アイムにもあって、お嬢様のような顔をしていたって、そういう――人間の本能からは決して逃げることが出来ないのだ。
「ええっ」
「早く。そうしないと、毒がもっと身体に――ん」
 言い終えないうちにルカは唇を受けた。まるで押し当てるようなやり方で、唐突でだけど甘くて、まるであめ玉をなめているような感じで、酒に含まれていた穀物の匂いが鼻をくすぐる。柔らかいアイムの肉がルカの身体に入ってきたとき、淡く強い電流が迸るのを感じて、アイムの言い方を借りれば、頭がぼーっとしてきた。
「はあぁっ……んんっぁ……」
 舌でアイムの身体の毒素――唾液が流れ込んでくる。ねっとりとした透明な液が自分の唾液と混ざっていく。
「そう、それでいいよ」
 何十秒からして唇が離れたとき、ルカは微笑んだ。アイムの口から言葉が漏れないうちに唇を返した。呼吸が出来ないほどに深く混ざりあう二人――不思議なほどの心地よさと安堵が身体をかけめぐり、電流はますます強くなっていくように思えた。
「あ――」
 アイムは細かく震えた。ルカは身体を押し当てた。胸から手を引き、自分の身体をあてた。
「どうしたの?」
 手でいじってあげようと思ったけれど、そんなことしなくて良さそうだった。
「どうも……」
 足を開いて、右足をアイムの足の間に入れてあげる。湿り気はスーツをまとっていても明確で、ほほえみをこぼしそうになったけれど、少し笑いすぎだったのでやめた。
「言ってくれないとわからない」
「でも……」
 ルカはアイムの頭を胸に引き寄せた。ジャケットを開いてインナーに彼女の頭を沈める。細かく手入れされた彼女の頭――すごかった。ルカはそんなにまめまめしく髪の毛を手入れすることがが出来ない。
「誰も言わないから」
 唇をうなじへ近づけ、そう囁きかけた。口の中、頬の裏側にたまった唾液を、耳たぶの裏側に向けてこぼした。
「は! あああっ……んっ……」
「これで大丈夫だから」
「ああ、すごい……あぁっ……」
「なにがすごいの……?」
 笑いそうになるのをこらえて、そのまま舌で耳をなめて、耳の穴を舌で塞いだ。ルカ自身はそうされるのがあんまり好きじゃなかった。そうされると、身体全体にくすぐったさが走って、どうしようもない感覚に落ちていってしまう。それがいやだった。
「ああぁっ……んっぁ」
 身じろぎをして、アイムは身体を離した。ソファに背中を預けて――その目がとろんとした色を帯びているのをみた。
「そんなことしたら、また身体に毒素が」
「そうはならないから、大丈夫」
 身体にけだるさがあった。足を閉じて密着させた。柔らかい足と足の重なり、淡いリズム、流れる電流――スーツは身体の重なりをむしろなめらかにしていく。
「本当ですか……」
「本当。このあたしがいうんだから、間違いないよ」
「……ルカさん、わたくし、怖いんです」
「……なにが? なにが怖いの? なにも怖いことなんてないじゃない?」
「このまま、墜ちてしまうことです」
 小さいけれど、凛とした声だった。なにも知らないわけじゃないんです、そういっているように聞こえた。ルカは一瞬動揺して、その態度をどうしようか考えて、それで、でも澄ました表情を続けることにした。
「墜ちちゃおうよ」
「えっ」
「あたしたちで墜ちちゃうの」
 アイムはまっすぐな目をしていた。それに比べるとルカの目はどれほど汚れていることだろうと思った。でも仕方ない。海賊の世界は、そういう世界で、この世界で異質なのはアイムのほうなのだから……
「ルカさん……」
「アイム……」
 アイムは身体を起こした。目の下のあたりが赤い。彼女はグラスを手に取った。氷は半ば溶けて、琥珀色はだいぶ薄れていた。
「本当にいいのですか?」
 挑戦的な言い方だった。
「いいって?」
「墜ちても」
「いいに決まってるじゃん」
 墜ちてみたって、合わなければ捨てるだけ、そう思ったけれど言わなかった。アイムはグラスの中の残りを飲み干した。
「アイム?」
「アルコールが毒素を中和するんですよね」
 アイムは身体を傾けた。ルカが足を挟み込んだということは、アイムも足を挟み込んでいる姿勢になっていた。
「そう」
 ピンク色のスカートがずりあがっていて、黒い股が露わになっていた。足が密着して、湿った身体がルカの身体にぶつかり、意識がフラッシュして、ルカは自分の身体もまた潤っているのに気づかされて、もう一度頭が真っ白になりかけた。
「あっ……」
「どうかしましたか?」
 その声は柔らかくもしっかりとした筋を持っていた。ルカはおかしかった。アイムもまた宇宙海賊なんだ、その声はそのことを気づかさせるものだった。
「墜ちちゃいそう」
 ルカは笑ったけれど、不器用な表情になってしまった。
「一緒に墜ちちゃいましょう」
 吹っ切れた声――筋をもった声だった。ルカは頷いて、首を振って――ざわつくような感じがたくさんの細い糸を巻いて絡みついていくようだった。はっきりしたところとぼやけたところ、二つが一緒に絡んでもつれて、すべては真っ白に染まっていく。
「あっぁっ……」
「んぁっ」
 ルカはアイムにすがりついた。身体の姿勢が変だったからきれいに身体が重ならない。だけど、できる限りぴったりくっつこうとした。力がある。ゴーカイピンクもまた、ゴーカイイエローに絡みつこうとしている。
「ああっ……ううぁっ……」
 二人は吐息をこぼしながら、一緒に混ざりあおうとしていた。どこまでも、どろどろに混ざりあおうとしていた。
 真っ白な光に包まれる。それが絶頂で、それは途方もない。空白を持っていて、なにもかもが塗りつぶされて、失神しそうになって、事実何秒か意識は途切れていた。
「くうぁっ……ああっ…・・ああ……ああ……」
 ゆっくりしてだけど激しい波に浮かんでいるような感覚だった。沈んで浮かんで、浮かんで沈んでを繰り返す。ふわふわの場所に身をゆだねているみたいで、なにもわからなくなっていった。

「……あの」
「なんですか?」
「あれ、うそ」
 本当のことをアイムにいうつもりなんてなかった。だけど。
「うそ、ですか?」
 言葉が口からこぼれ落ちた。
「あのガスに毒はなかったって、ハカセが調べてた」
 ルカは言った――あたしもまだまだ甘い。そう思わざる得なかった。悪い人にはなりきれないし、でも、ひどい嘘をつききることができなかった。
「……え」
「ごめん」
「……そんなところじゃないかと思ってましたよ」
 声が聞こえた。ルカは顔をあげた。
「でも、ルカさんはわたくしの身体の中から毒素を取り除いてくれました」
 アイムは微笑んだ。ルカの身体から力が抜ける。ルカは表情を崩そうとして、だけどうまくできなかった。
「アイム」
「はいっ?」
 なんでだろ、ルカは目をそらした。ほんのいたずら心だったのに、その波に飲まれているのは、相手じゃなくて――ルカだった。
「ありがと」
「えっ?」
「なんでもない」
 ルカは起きあがる。ソファに腰掛けた。時間が流れる。いつの間にか立場が逆転していた。悔しいような、そうじゃないような、そんな心持ちだった。
「ルカさん」
 声ですらどこか心地よさを持っているように感じられた。
「ん?」
 目を向けると、そこにはアイム・ド・ファミーユがいた。ゴーカイスーツはその身体によくフィットしていた。
 つんとした匂いが鼻をかすめる。それは甘い匂いだった。香料とかどんな香水ですらかなわないような柔らかいものだった。
 アイムの匂いだ。ルカは気づいた。アイムはルカの手の甲に手を重ねた。