迷い鳥の末路(3)


(このままなら、勝てる!)
 満身創痍のブルースワローが勝利を確信したとき、彼女が背にした岩の陰から、同じ外見をした半魚人の怪物が、ぞろぞろと十匹ほど現れてきていた。彼女は、戦士が未知の場所に来た際に、最初にすべき周囲の安全確認さえ、まだ行っていなかった。
 半魚人の行動に、人間で言う「間」のようなものは一切無い。
 相手の様子を伺うことも、隙を突くという発想も、一帯の生態系の頂点に立ち、数が減る理由といえば、餌の現象による自然淘汰以外に無いそいつらにとっては無用のもの。
 キラキラと光沢のあるブルーとホワイトのスーツに視神経を刺激されていた彼らは、最も弱い個体を尖兵として彼女にぶつけ、相手が貧弱な力しかないと理解するや、群れで一斉に襲い掛かった。バードブラスターで撃たれ続けた個体でさえ、熱に驚いて悲鳴を上げたが、体表に付着した泥が焦げているだけで、身体には傷もついてはいない。
 地球の科学力を結集して造られた武器は、まるで通じない。
 そこは、人間が踏み込んではいけない場所だったが、アコには知る由も無い。
 半魚人たちはぐちゃぐちゃと泥沼をかきわけ、気配を消さず、存在を隠さず、奇声を上げながら太い腕を振り上げる。向かう先は、破れて半分以上が剥離したジェットウイングを垂らしている、高校生少女戦士の華奢な背中だった。
(え? うそ……! そんな……)
 振り返ったブルースワローのメットを、巨木のような腕が横殴りにした。
 グシャン!と鈍い音を立てて、蒼い金属片が宙を舞う。
 強烈な衝撃が彼女の首から上を限界まで捻った。脳を激しく揺さぶる一撃。ブチブチと悲鳴を上げる筋肉と、ゴギギギと軋む骨の音が聞こえてきた。捻れた首に鋭い痛みを感じた瞬間、アコの聴覚から全ての音は消え、視覚は窄まり、暗転する。
 バードニックスーツで最も強固な頭部装甲と、バードニックウェーブで強化された肉体が、ただ強力過ぎるだけの純粋な怪力に、文字通り打ち砕かれる。
 視界を守るバイザーが無数の細かいヒビで白く染まり、口元を保護するマスクが斜めに裂けた。青い金属装甲の右頬は、拳の型を残してぼこりと陥没する。衝撃はとても殺すことができず、メットの奥でアコの瞳は焦点を失い、ただ衝撃の余韻で放心していた。
 反動で放たれたバードブラスターの光線は、虚空に消える。
(わたし……なぐられたの……? ヤバい……からだが、うごかな……)
 衝撃で半回転し、ヒザを折って崩れ落ちる鳥人少女を、半魚人は胸部のスーツを掴み上げて押し留めた。胸を宙に縫いとめられ、右頬が陥没した頭部が力なく横に垂れる。
 だらりと弛緩した腕からバードブラスターが滑り落ちた。
 ヒザは半端に折れたまま、力が入る気配は無い。
 赤黒い血を幾筋も流す腹部からスカートにかけて、かつての鮮やかなブルーは跡形も無く、粘りつく血糊とヘドロで赤黒く塗り潰されている。亀裂の入ったマスクからも、赤い血が音も無く流れ落ちて、胸を掴む怪物の手を濡らしていた。
(みんなと、いっしょなら……こんなやつ……こんなやつら……)
 罅でズタズタになった視界の向こうで、半魚人の拳が再び振り下ろされる。
 朦朧とした意識の中、アコは反射的に目を閉じてしまう。
 混乱していた精神は、殴られた衝撃で半ば冷静さを取り戻していた。奇襲された衝撃が消えた直後だからこそ、虚勢の無い、自分の正直な気持ちが現れる。ジェットマンの一員としての正義感と使命も、戦う勇気も、いっしょに戦ってくれる仲間が存在していることに依存していたと、ここにきてようやく理解させられる。
(怖い……! 戦うのが怖い……! 目の前のキモい怪物が怖い……!)
 ジェットマンを指揮する小田切長官は、アコの性格や仲間との人間関係を理解しており、厳しい実戦の中で彼女の心が壊れないように心理的なケアを怠らなかった。恐怖心を巧みに封じ込め、まだ子供である彼女を一人前の戦士にまで育て上げた。
 しかし、魔法が解けて美しいシンデレラが灰かぶりに戻るように、アコから戦う勇気はみるみる失われ、ただ恐怖に打ち震える女子高生の顔が現れてくる。
(怖い! 怖いよ! イヤだ! 怖い! 止めて! 怖い! イヤだ!)
 自分の心中に広がっていた感情を「恐怖心」と理解した瞬間、アコのブルースワローとしての精神は半ば音を立てるように崩れて、見開いた目から大粒の涙が零れ落ちた。
 しかし、怪物の攻撃は止まらない。
 衝撃と同時に、アコの視界は揺れた。
 呼吸が止まり、喉から熱い液体がこみ上げる。
 半魚人の腕が、穴だらけの腹部に吸い込まれ、華奢な肢体をくの字に折り曲げた。腹の穴から赤黒い血肉の塊が噴出して、遅れて地獄の激痛と呼吸困難が彼女を襲う。
「げっ! ごぼ……!? がぼごぼっ! げぼっ!」
 メットの内側に真紅の胃液をぶちまけたアコは、視界一杯に広がる怪物の姿を目に焼き付けながら、悲鳴の代わりに呻き声を上げた。殴られるたびに痛みが増している。内臓のダメージは深刻だった。下腹部が、燃える鉄を捻じ込まれているように痛む。
「あ゛あ………あ゛あ゛……あ゛……」
 しかし、今度は、新しい恐怖を感じる時間は無かった。
 恐怖を感じる前に次の攻撃が来た。
 半魚人に掴まれている胸装甲のすぐ脇に、別の半魚人の拳が捻じ込まれる。
 生身ならば胸部から背中まで突き破られていたであろう一撃。スーツの下で、柔らかい左乳房が押し潰されて血泡を噴いた音と、肋骨が砕けた音はほぼ同時だった。バキベキボキと明瞭な音を立てて、思春期を迎えて大人になりかけた肉体が、肉と、骨と、内臓と、脂肪の、そして永遠に修復不可能なジグソーパズルに変えられていく。
 女性の象徴たる部位の片翼。それが無残に破壊されたことは、体内を響いて伝えられる潰音により、強制的に伝えられる。
「ぐっ、ごっ、ぐ、うう゛う゛……」
 乳房を潰されたショックは、アコの心を胸部同様に抉り尽くした。
 私は女の子なのよ、子供なのよ、と叫びそうになるのを、喉の奥で押し留める。
 それを阻止したのはジェットマンの一員として、そして戦士としての最後のプライドだった。性別や年齢を言い訳にすることは、同じ女性隊員のホワイトスワンも貶めることになるし、高校生の彼女を対等に扱ってくれた他の隊員たちへの裏切りだ。
(会いたい……みんなに、もう一回だけ……)
 怪物の姿が涙で歪んで消える中、仲間たちの顔だけが鮮明に思い出される。
 奈落に落下するような感覚とともに、アコの意識は闇に沈み、再び甦る。
 陰部に、生温かい感触がじわりと広がっていく。
 失禁に恥辱を感じるような余裕は、今のアコには無かった。尿意を感じることも無ければ、尿道を閉めることもできない。壊れた容器が水を溜めておくことができないように、彼女の肉体はもう、最低限の機能さえ失われつつあるようだった。
 スーツの奥で、下腹部から太股に広がっていく、温かい液体。
 しかし、アコは排尿の快楽すら、もう感じることができなかった。
(私は……みんな……せめて、もう一回……)
 新たに近づいてきた半魚人たちは、肩から腕にかけて、金属めいた光沢を持った、半透明のヒレを生やしていた。敵を斬る武器らしく、先端はナイフのように鋭い。
 彼らは獲物を前後左右から取り囲むや、次々とヒレで斬りつけ始める。鋭利な軌跡が、ブルースワローの背中や肩に触れるや、スーツは煙と火花を上げて裂かれていった。
 青い表面装甲が断裂し、肉体保護用の衝撃吸収材まで耕され、刃の一部は易々と最下層まで達してしまう。アコの右肩はノコギリで挽かれたように、スーツが大きく口開き、ゴム状の灰色の素材が露出した。それが破れれば、露になるのは生身の肩である。
 背中は斜めに切り下ろされ、煙を噴いて表面の装甲は裂き広げられた。怪物たちは興味本位で切り刻まれたジェットウイングを掴むと、ベリベリと音を立てて背中から引き剥がしていく。ブルーの表面装甲も連なって引き剥がされ、煙と火花を散らしながらスーツの亀裂は背中全体に広がり、怪物の吐息が背中越しに伝わってきた。
 アコの目から大粒の涙が溢れ、歯は恐怖でカタカタと鳴り始めた。攻撃を完全には防げないが、肉体を保護している最後の要が、音を立てて引き剥がされていく。
(バードニックスーツが……! お願い……耐えて……持ちこたえて……!)