迷い鳥の末路(1)

 この場所に辿り着いた記憶は無かった。
 倒れていた場所は、大きな岩の上だった。
 微かに眩暈がするのを我慢しながら、両手でゆっくりと上体を起こして、恐る恐る立ち上がる。そこにいたのは、光沢を帯びた青いスーツに身を包んだ戦士だった。

「ちょっと待ってよ……ここってどこなの……?」

 全身に纏うのは、バードニックスーツと呼ばれる科学の結晶。
 ツバメを模して造られたバトルメットで頭部を保護され、発展途上の胸からすらりと長い足まで、清廉なブルーとホワイトの薄型装甲で包まれている。さらに、苛烈な運動を想定したブーツやグローブ、腰に装着された光線銃や長剣、背中に格納された翼など、あらゆる状況下で戦闘を可能にする装備が施されていた。
 洗練された色彩で光沢を放つ武装姿は神々しいほどだが、しかし、薄地のスーツのラインから、瑞々しい色香も漂わせている、可憐な戦士。
 その正体は、まだ高校生の少女だった。
 名前は早坂アコ、コードネームはブルースワロー。
 持ち前のスピードで敵を翻弄して戦う、うら若き鳥人の少女戦士である。

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 事の始まりは、仲間が考案したある作戦だった。
 異次元より、転送装置を用いて地球に攻め込んでくる侵略者「バイラム」に打撃を与えるため、仲間の一人が裏切ったフリをして敵の本拠地に侵入し、転送装置の破壊を試みたのである。しかし、直前で敵に発見されて、戦闘になってしまった。
 アコたち、ジェットマンの戦士四人は巨大ロボに搭乗し、仲間が発信した信号を追跡して、バイラムの本拠地に突入した……はずだった。しかし、

「冗談でしょ……まさか、転送に失敗したって事……?」

 ブルースワローの視界に広がるのは、遠くに広がった、炭のように黒い森と、腐敗した匂いが漂う泥状の大地。そして、月のような衛星が何百と斑点のように浮かんだ、血のように赤い空だった。そこが、地球でないことは疑いようがない。
 また、バイラムのような高度な文明が存在するようにも見えない。
 転送中に事故が起きたのだろう。彼女は異次元に飛ばされてしまっていた。
「凱! 香! 雷太! 誰か、応答して!」
 必死に通信を試みるアコだが、聞こえてくるのは砂嵐のようなノイズのみ。
 周囲を観察しても、搭乗していた巨大ロボットも、仲間たちの姿も無い。ロボットが墜落したような巨大な痕跡も無いことから、彼女だけがここで孤立したらしい。
「何とかして、帰る手段を発見しないと……」
 バードニックウェーブを浴びて肉体が強化され、常人を超える運動神経を得た後、一流の戦闘訓練を施されてきたアコだが、地球外環境での活動など知識も皆無だった。日常では、同年齢の友達と遊んだり、オシャレをしたりの、普通の少女なのである。
(大丈夫……きっと帰れる……! みんながすぐに、救出に来てくれる!)
 通信機は無事なので、仲間が電波を追跡して辿り着ける、かもしれない。
 それに、実はバイラムの基地が、ここから数キロメートル先にあったりする、かもしれない。日本も、東京のような大都市から、北海道の山奥のような場所もあるわけで、アコがいる場所がたまたま辺鄙な場所だけという、可能性もある。
 色々な想像が浮かんでくるが、全ては想像でしかない。
 かもしれない。可能性もある。かもしれない。可能性もある。かもしれない。可能性もある。かもしれない。可能性もある。かもしれない。可能性もある。
(あれ……どうしたんだろ、私)
 動揺を必死に抑え、打開策が見つかることを信じるしかない。
 それなのに、背中に悪寒が走り、黒い腫瘍のような感情が思考に混じる。
 希望のオレンジや冷静な白で塗り潰しても滲んでくる、どす黒い色。動く力どころか、考える力さえも吸い尽くして成長していく、ゆっくりと輪郭を成していく想像。
(…………えーと! 今やることは、まず、周囲の安全の確保だよね! こんな何もない場所でぼーっとして立っていても、仕方ないし! うん、すぐにやろう!)
 今はまず動くべきだと言い聞かせ、アコは岩から泥状の大地に降り立った。
 青いブーツが、ずぶりと半分ほど泥に呑み込まれる。泥は思ったよりも粘性が高く、腐敗臭のような生臭い匂いが、歩くたびに発生してスーツを這い上がってくる。
(早く、普通の地面の場所を探さなきゃ)
 アコは、汗が浮かんだ顔を顰めながら、右足の十歩目を踏み出した。
 その瞬間、足場が消失するような浮遊感といっしょに、アコの右足は泥の中に呑み込まれた。腰まで沈んでも足は底につかず、バランスを崩した上体も傾く。
「きゃああああああっ!」
 上半身を支えようとした両腕は泥に刺さるようにして沈み、胸部からメットが高い音を立てて泥の水面を打った。飛沫がジェットウイングが収納された背中にビチャビチャと落ちてきた時には、彼女の上半身は前半分が完全に泥に沈んでいた。
(あ、足が底につかない! 深い! 何これ! 嘘でしょ!)
 アコは混乱しながら、必死に手足を動かし、捕まれる場所を探した。
 バードニックスーツに守られた肢体は、しかし重力に勝てずにゆっくりと泥の底に沈んでいく。粘りつく泥がメットを呑み込み、視界は完全に閉ざされた。機密性の高いバードニックススーツが破れることはないが、冷たい泥は体温を吸い始め、グローブやブーツの隙間に侵入してきていた。
(こ、このままじゃ息が……あっ!? きゃあああああああああっ!)
 巨大な万力で腹部を締められたような圧迫を感じて、アコは暗黒の世界で混乱して悲鳴を上げた。スーツは肉体に密着した分だけ収縮には余裕があるが、感じた圧力はまるで、腹部に何本も生物の指が食い込んでいる異様なものだ。
(いったい、何が………!?)
 肢体には、急激に上昇していく加速度がかかった。

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 汚らしい音を立てて泥沼から引き上げられたブルースワローのスーツは、黒い泥でどろどろに濡れて、かつての清廉な光沢は見る影も無かった。
 スカートやブーツの先から雨のように落ちる泥塊、胸に付着した黒い固形物、ぐったりと脱力した腕、泥を濾して黒く染まったマスク、力なく右に傾いているメット。
 そして、混乱した際の腕の誤動作によって展開してしまい、泥に濡れて黒いマントのように垂れ下がった鳥人の象徴、ジェットウイング。
「はぁぁぁ………はぁ、はぁ……はぁ、はぁ……」
 肥溜めに落ちた小鳥のような、無様な姿で脱力したブルースワローは、そこでようやく自分の腹部を締め上げている存在の姿を、視認できた。
 昨日、深夜にやっていた映画に登場した、半魚人が最も外見が近かった。
 三メートルはある巨大な体躯で、相撲取りのように肥えている。全身は泥色の鱗で覆われており、頭部や胴体には鋭利に尖ったヒレのようなものが生え、皮膚は完全に魚類のものだった。しかし、二足歩行をしていて、顔は口が耳元まで裂け、灰色に濁った目が何十個も顔についており、地球にいる魚類の規格からは大きく逸脱している。
 そして、そいつの両腕に掴まれている、アコの顔から血の気が引く。
 生理的に受け付けられる限界を、その顔だけで超えた醜さだった。
「いやああああっ! やだ! 離して!」
 腹部に食い込んだ巨大な手を振りほどこうと、ブルースワローは怪物の腕に手刀を打ち込んだ。ブリンガーソードもバードブラスターも怪物の手に邪魔されて腰からとれない。足が宙に浮いていては、開いているジェットウイングも機能しない。
 抵抗する青き鳥人少女にむけて、怪物の巨大な口が開かれる。人間の頭部をバリバリと噛み砕けそうな大きさに、アコは恐怖を感じずにはいられなかった。
「ゲエエエエエエエ!」
 怪物の口から水鉄砲のように黄色い粘液が吐き出されて、ブルースワローのメットや胸元にビチャビチャとかけられた。防ごうとした両腕にも吐きかけられ、黒く汚れた上半身のスーツが、今度は黄色い粘液に塗れていく。
「やあああっ! やめてええええ! キモイっ!」
 溶けたチーズのように粘っこい糸を引き、メットや両腕を絡めとる粘液に、アコは嫌悪感と恐怖で悲鳴を上げた。毒液の類だろうと思ったが、マスクが侵入を許さない。
 しかし、同時に、掴まれた腹部のスーツが激しい火花を散らした。何が起きたかを考える時間もなく、アコの左右の脇腹に、灼熱の激痛が走った。
「ぎゃあああああああっ!」
 両足に零れ落ちた赤い液体は、アコの腹部が破れて出血したものだ。
 怪物は怪力に物を言わせ、人類最強の装甲であるバードニックスーツさえも突き破り、アコの腹部を押し潰すように、太い指を何本も突き刺していた。激痛の中心で巨大な異物が肉を抉り、深く食い込み、無防備な内臓を圧迫してくる。
(嘘よ……っ! バードニックスーツが、こんな簡単に……!)
 強化された肉体も、スーツを簡単に破るような怪力の前には無力だった。吐血がメットの内側を濡らし、アコの顔を赤黒い化粧で染めあげた。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!」




(続)